私にとってはいろんなテレビ局で同じような地震報道をする意味が分かりません。 非効率であり、現地の方々からすれば邪魔なだけではないでしょうか。 取材ヘリの騒音ががれきに埋もれた被災者の叫びを掻き消しているのであれば立派な「人災」ではないでしょうか。大事な情報が、放送してもしなくても変わりのないようなものの中に「拡散」されてしまっている気がします。 この件はきのう書いたチェーンメールにも言えます。
あと私には「被災者の無事を祈っています」と言うことができません。 何か大きな災害が起こると枕詞的にこのような言葉が出てきますが、私にはこの言葉がきれいごとに聞こえ、その言葉通りの行動がとれないから、周りの「空気」に合わせてこういった発言をすることは結果として無責任になると思うから、言えないのです。 私は見ず知らずの他人に対してあれこれ思いをはせられるほど優れた人間ではありません。その証拠としては地震が起こるまで被災者のことを何にも知らなかったのですから。 そして今不自由なく生活できている「安全地帯」から彼らの悲劇を嘆くことは「私の好意の押しつけ」と感じられるのです。何とも無責任だと感じられるのです。
何らかの行動で被災者の支援を行おうとすると、いかに自分が安全地帯で過ごしていて、被災者に何もできないのかがよく分かります。 私は現在暇を持て余しており、ボランティアとして現地へ赴きがれきの撤去などができるように、いやむしろ行くべきと思われるかもしれません。 しかし、ただでさえ物資が不足しているというのに、役に立つのかもわからない人間が被害地へ出向くメリットは、安全地帯で暇を持て余している場合のデメリットよりも大きくなるのでしょうか。 おまけに私は非力で、口下手で発音も悪いので現地では確実に足手まといになってしまうと思います。 「自分が現地へ行かれない代わりに衣類や食料・お金を送ればいいや」という発想がありますが、何でも「物を送ること」が被災者への支援になると決めつけるのも良くないのではないでしょうか。 確かに被災現場では多くのものが不足しているようですが、例えば大阪から気仙沼在住の両親へ送ったものより、他人である私が送ったその人に不要なものが先に現地へ届くとしたら輸送の妨害になると思います。 何もしないほうが良かったことになりかねません。 お金の場合は私の性格が悪いのもありますが、今後大学生になってあまりバイトもしないで過ごすことになると考えると、寄付に踏み切れません。 たとえ親族や友人が被災したとしても、現金を送付することには抵抗があります。逆の場合も然り:お金をもらっても使う気になれないかもしれません。 誤解を招かないよう書いておきますが、私は一生懸命支援しようとしている好意を砕こうとしてこんなことを書いているのではありません。私も被災者のことは気になります。 ただ、被害者が多いから心配しなきゃいけない、という発想が無批判に受け入れられること、そう思っていなくてもタテマエとして心配している風を装わなきゃいけない風潮に疑問を覚えるのです。
33R旅行は決行される模様ですが、「不謹慎だ」と思われそうです。 でも、我々が旅行をキャンセルしたとしても、河口湖までのバスは定刻で走るだろうし、宿も富士急も営業していると思います。 私としては、浪人当初からずっと楽しみにしていた旅行が、「被災者のためを思って」という理由で中止されるのは筋違いだと思います。後期がずれ込んで参加できない方には非常に後ろめたく思います もし東京で地震があり私が被災したとしても、九州の若者集団が北海道へ旅行に行ってワイワイやっていても不謹慎とは思いませんし、のちに謝られても対応に困ります。 強調したいこと:タテマエで被災者を心配しているような方に「不謹慎だ」と思われることは心外です。
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もし不愉快に感じられた方がいましたら、ためらわず教えてください。
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